いとうちひろのエッセイ「ニッポンの会社今昔物語」

天下無敵の日付印

コレは、某大手メーカーの役員秘書業務をしてもう○○年という方がしでかしてしまったお話です。

ここ数年の間に急成長したその事業部は、膨れ上がる関係従業員を一個所に集めて置く事ができず、暫定処置として、アチコチに散らばっている事業所の、空きのある居室にねじ込むような形で日頃の業務を遂行していました。
所帯が大きくなってくれば、当然専従役職者の人数も増え、それに比例して秘書の人数も増える事になります。
「普段電話やEメール等で頻繁にやり取りしているのに、 実際に会ってゆっくり話しをした事がないというのも、いかがなものか?」
という、その当時の事業部の大ボス(現在、そのメーカーで働く人でこの方を知らない人などいる 筈のないという、会社案内に顔写真が載ってしまうような偉いお方)の提案で、役員とその秘書をセットとして、懇親会を開く事になりました。
その懇親会の手配を一手に引受けたのは、大ボスの秘書の田原さんという秘書でした。
彼女は、普段から知的でソツなくテキパキと仕事をこなし、人当たりもよく愛敬もあって、その上美人という具合に、まさに非のうちどころない女性で、大ボスだけでなく皆からの信頼も特別厚かったのです。

彼女は、今回の懇親会の準備も完璧にこなし、所長・本部長級の役職者5人とその秘書5人のその会は、おごそかに始まったのでした。
会が始まりお酒が進んでくると、お互いまったく知らない間柄でもないのですぐに打ち解け、フランクに話しが盛り上がってきました。
そしてある時、大ボスはふと一際陽気に騒いでいるのは彼女だと気付いたのです。普段の彼女からは想像もできない、新しい一面でした。
「いやあ、田原さん楽しそうだねえ。ホラ、もっと飲まなきゃ!」
「ハァ〜イッ! もっちろんいただいちゃいますよぅ〜ッ!!」
彼女が陽気に盛り上がる姿を見るのは、一同初めてであったので、皆はもっと彼女を盛り上げようと競って飲み始めました。
どれ位飲んだでしょうか?陽気さ加減にはまったく変化はなかったのですが、いつの間にか 田原の目はすっかり正座状態 になっており、突然、 
「困ったちゃんには、困ったちゃんマークを押してやるぅ〜。」
と言いながら、どこに隠し持って いたのか、自分の日付印をなんと大ボスのオデコのド真ん中に ”ペタン” と、押してしまった のでした。
オデコについたその日付印は、いつも彼女が書類に押すように、クッキリハッキリ美しくムラ無く完璧に捺印されていました。
皆が、大ボスのその何とも言えないマヌケな姿を静視することもできず、言葉を失っていると、彼女は 
「う〜ん、まだまだ足りないぞぉ〜。次はホッペだぁ〜。」
とさらに大ボスに襲いかかろうとしたのです。
皆今度は慌てて彼女を押え込み、 間一髪で大ボスはホッペにまで困ったちゃんマークを押されずに済み、納得がいかずにブーイングを続ける彼女をなだめすかして、その日は何とかお引取り 願ったのでした。 
そう、彼女は酒乱だったのです。
勿論、度量の広い大ボスは、困ったちゃんマークなど気にする様子はまるでなく、日付印を拭き取ることもせずに、オデコにクッキリハッキリ付けたまま帰宅して行ったのでした。

翌日、どうなることかとヤキモキする周囲をよそに、彼女はその時の出来事だけスコンと記憶をなくしており、しかも最後までしっかり懇親会を段取らずに、先に帰宅させられた事をしきりに怒っていたのでした。
同席していた秘書がその時の事を話してきかせても、
「そんな事、私は絶対していません!」
と言い張るばかりで、とうとう先輩秘書に
「困ったちゃんはアンタじゃあぁ〜。」
と言わしめられ、その日から彼女のアダナとなってしまったのでした・・・。

次号は12月1日に公開予定です。

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